自殺の国で殺し合う、笑顔の埋葬者達
せめて俺を殺すなら、最後に見る表情は悪であって欲しい
取り繕いの笑顔なんていらないし、最後まで悪として貫いて欲しい
幼い頃はバリバリ社会で働く人達がキラキラして見えた
決して見える事の無い何処かの誰かの為に、日夜働く姿が格好よく見えた
自己満足だろうけど、俺が社会人になった時も幼い頃と変わらずそう思ってたし、今もその姿に縋ってる
平日は一生懸命仕事をし、土日は家族とともにゆったり過ごす
ステレオタイプな在り方だけど、それは現代社会においてはとんでもなくハードルが高く感じる
現実、今の俺は平日は朝から晩まで誰の為でも無く自分が生きる事の為だけにヘトヘトに仕事をして、ありとあらゆる場面で心を消耗させながら踏ん張って、夜家に帰れば何処の肉だかも分からないような低価格ファストフードを食べ、ノンアルのレモンサワーを飲みながらベッドで横になり、気がつけば電気もテレビも付けっぱなしのまま寝落ちして、朝を迎えて急いで準備をして家を出る
土日はいつの間にか1人のまま終わるか、残務をしてる
緩やかな自殺にも似たような生活が中距離走のように続いていく
仄かにゴールが見えつつもそこに着くまで全力で走らなきゃいけない
俺がファストフードで700円使う傍らで、高級な焼肉店で脂の乗った美味そうな肉は大量に廃棄されるし、俺がスーパーで半額の刺身を手に取るのと時を同じく湯水のように寿司屋で大トロや雲丹を食べる人がいる、俺が汗水を流して途方もないストレスを抱えて働き給与明細から10万円以上引かれた手取りに落ち込む中、システムの上でほぼ何もせず3桁万円以上毎月のように手にする人もいる
俺の生活と同じく緩やかな自死を迎えようとしているこの国の中では、資本主義と社会保障の狭間でありとあらゆる殺し合いが繰り広げられる
殺し合う事でしか自身を生かさないし、殺された人間はセーフティネットという檻の中で飼い殺される
別に社会が歪んでるとは思わない
歪んでるのは社会を見つめる俺の目のほうだ
生きてて楽しい事も沢山ある
でも嫌な思い出の方ばかり思い出してしまう
いっそのこと社会というひとつのコミュニティから飛び降りたくなる事もある
落ちた先にあるものが何なのなんて分からないし、先に述べた社会人への憧れの微かな輝き、そして母のことを思うととてもじゃないがそんな勇気は出ない
来年55歳になる母は自分の一度しかない20代、30代という若い時代を犠牲にし、俺を含む3人の子供を1人で育て上げ、全員自立した今でも働いてる
母が今の俺の年の頃(34歳)、俺は既に中学生だった
信じられない
今の俺にはとてもじゃないが中学生の子供を育てる事なんて出来ない
結局は俺なんて未だに大きくなっただけの子供なんだろう
誤解を恐れず言えば俺は母が好きだ
本当に辛い、死んでしまいたい、自暴自棄になった時は、幼稚園の頃雪が降る中登園バスを待つ際に母のコートの中に入って顔だけ出してバスを待ってた時の事を思い出す
俺の持つ1番古い記憶
その記憶を思い出すともう少し頑張ろうと思えた
明日から火曜日まで家に帰ってくる事が出来ない
このストレスが1秒につき1gだったら俺はもうその場から動けずに圧死していく
せめてその時だけは殺し合いの事なんて忘れて母のコートの温もりを思い出しながら死んでいきたい